▪️Beppe Loda
プロフィール
アフロシーンの創始者
北イタリアの音楽シーンをリードし続けてきた伝説的DJ
Beppe Loda。彼なくして、イタリアのディスコシーンを語る
ことは出来ない。
全盛期“Typhoon” ”Cosmic”のレジデンツとして君臨し続け、”Af
ro” “Cosmic”ムーヴメントを興した中心人物だと言え
るだろう。イタリアの工場都市Bresciaで、DJ Beppe Lodaは生まれた。1973年、彼は北イタリアMan
erboでDJとしてのキァリアをスタートする。198
0年まで、Le Cupole Di Maeribo, Bisi & Good Moon のレジデンツDJとしてプレイし、その頃からAfric
an origin, Fusion, Jazz, Brazilian, Funk, Blaxploitation, Percussionといった異なるジャンルを織り交ぜ
るDJスタイルを確立していく。1980年、彼にブレークスルーの機会が訪れる。
“Cosmic”と同じく、今も尚語り継がれるイタリア
の伝説のクラブ ”Typhoon”でのレジデンツDJのオファーである
。
“Typhoon”は、映画の撮影スタジオ跡地に、サウ
ンドシステム、ライティングを取り付けたキャパシティー
400人の箱だった。
彼はレジデンツDJとして、毎週土曜日にプレイしていた
が、月に一度だけ月曜日に、”Non-Stop-Mus
ic”というタイトルで、当時イタリアで全盛期だったD
isco, Funkミュージックに、ドイツ産電子音楽、New Wave、Industrial Musicを織り交ぜ実験的にプレイした。
非常に遅いBPMでスタートし、徐々にアフロ セントリック サウンドに徐々に移行していく。ここでのプレイでは、最
先端な音を追求しながらも、彼自身リアルにやりたい方向
性を探し出すプレイが出来ていたのではないのだろうか。“Typhoon”では、Micro Seiki DQX 1000を使用していた。それは当時+/- 8%が通常に対し、+/
– 20%のピッチ調節が可能だった為、 通常Mixする事が出来ない曲をスムーズにMixすることができた。
それでも当時の作品を織り交ぜるプレイスタイルは容易で
はなく、非常に集中力がいることだった。その為、彼は空
手を習い(黒帯)精神面を鍛え集中力を高めたという。
”Typhoon”の名が広がるに連れて、イタリアだけではなく、ドイツ、オーストリアからもエキサイティングな音楽を求めるクラウド達が押し寄せ、“Typhoon”は最も魅力的なクラブとして、ヨーローッパ中に広がっていき北イタリアの音楽シーンをリードしていく中心的存在だったと言えるだろう。
あなたは想像する事ができるだろうか。
”Typhoon”は、普通の民家に隣接され、駐車場も無かった。400人のキャパシティーのクラブの外には、3000-4000人もの人々が、入るのを待っていたのだから。
一人出ては、一人入る。
それは、クラブカルチャーにおける革命だったとも言えるだろう。
北イタリアでは、”Typhoon”と”Cosmic”互クラブは、イタリアで最も有名なクラブだったが、実は彼も1984年まで ”Cosmic”のレジデンツをつとめている。
Baldeliはマシーン、Beppeのプレイは人間味があると例えられ、両者はイタリアのディスコ界を代表するDJとして君臨していた。
北イタリアの音楽シーンをリードし続けてきた伝説的なクラブ ”Typhoon”と”Cosmic”は、同じ87年に幕を閉じる。 “Typhoon”に至っては、400人のキャパシティーのクラブに、毎週3000人近いお客さんが訪れるというプレッシャーに絶えきれず閉店した。最終日には、1万人ものファンが押し寄せ、皆、伝説的なクラブに敬意を払いお金を置いていったという。
“Typhoon”閉店後は、彼はヨーロッパ、アメリカをはじめイタリア外で招聘されプレイする機会が多くなる。
Beppeのスタイルの特徴でもある、Afro Musicにシンセサイザーが加わり、サイケデリックを融合させ、新たなジャンルへと進化させるスタイルは、故Larry LevanやDavid Mancusoにも影響を与え、彼らも好んでプレイしたという。
人の心を突き動かす音楽の本質を理解しているからこそ、彼の作り出す音は実にスペーシーにエモーショナルにフロアに届くのである。
今日も彼はレアなレコードを探し続けている。それは彼にとって、鼓舞し深奥の原動力ともなっている愛の出来事だと言えるだろう。